昭和五十六年十二月十五日 朝の御理解


御理解第九十節
「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつかしい。道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆくうちには徳が受けられる」


 又の御理解に信心は容易いものじゃが氏子から難かしゅうすると教えられてある御理解が御座いますね。今日の御理解を頂きますとなかなかどうして容易いものではない、それこそ下から上へ水を流すように難しい。けれどもそれを辛抱していってるうちに徳が受けられるね、徳を受けた世界はもう限りない、まあ言うならばひとりでに物が出来るようなおかげという事にもつながってくるわけです。だからいかにもこう御教えが矛盾したように聞こえますけれども、決して矛盾ではないと思うんですよね。
 昨日は大分支部の月の共励会ですから、いつも毎年最後の十二月の月は私が参ります。そしてあちらの大変有名な河豚料理のお店があります、そこでもうそれこそたらふく河豚を御馳走になるのがもう毎年の嘉例になって、今年もやはりそちらへおかげを頂きました。まあ早めに四時頃からここを出ましたから、そして夕食を終わってようやく支部長宅へ参りましたら、支部員の方達も皆集まってます。
 まあ、いろいろと御祈念をさせて頂いてそれからお話を聞いて貰ったんですけれども、中に高野さんという夫婦まあ何ともいえん何というでしょうかね、心の美しいご夫婦ですが食料品屋をなさっておられます。もう七、八年も前だったでしょうか、近所に二軒大きなマーケットのようなのがでけまして、もういよいよ駄目だからやめるというお届けに来たのが初めてでだから、そげなこつ言わんでお願いをしてさしてもらいなさい。小売店のあんた方でなからなきゃでけんような商売さしてもらいなさいというてまあ申しておりましたが、まあ昨日も言ってましたが月次祭だけ位しかお参りは出来ないのですけれども、合楽理念に基づく商売をさして頂いとる店だというのが看板にかかっとるんです。以来おかげを頂きまして、そのマーケットもそういう食料売場のセンターがでけたんですけれどもやっぱ高野さんとこは高野さんとこなりに繁盛しているんですね。いわゆる信心に基づくいわゆる親切な人達ですから、やはり親切を元にして、まあ言うなら合楽理念を元にして夫婦で商売しておられるんです。
 ところが最近、少し商売が不振になった。そこでそこにお婆さん、義理のあるお母さんをお母さんじゃないお婆さんを見ておられます。夫婦で、その方が非常に人の悪口を言いなさってまあ言いなさるから、こっちもやっぱそれに相づつ打たんならんようなその事でございましたけれども、そのお婆ちゃんにもう今日を境にいっちょもう悪口の話はやめましょうやというて話し合った、ね。そしたら不思議にそういうもう悪口は言いますまいやというて決めた時点から、又おかげで繁盛しました、売れ出しましたという発表が昨日あったんです。
 これも昨日、宮崎の高鍋、高橋繁という方がおられ大変器用な方でもうこの人のできん事はないちいう、何十段ちいって段をもっとる剣道、あ何とか段、こうまいお方なんですけどねもうお茶も出来る。何でんでけん事ない、そりゃもう本当ここであのいつも大祭の時篭に果物がお供えしとるでしょうが、あれなんかはあちらへ行った時にほんなあっという間に作んなさつたというのだから、山から葛を取って来てから作んなさったちそりゃまあ大変器用な方ですけれども、まあ昔から器用貧乏ちいってですねぇその中々その言うならば経済に恵まれない、いつももうガツガツの今年ももう一週間ぐらい前から毎日のようにもう今年はとても今年の正月は越えられん事ある、金銭のお繰り合わせ頂かなどうにも出来ませんどうぞお願いしますお願いしますという事でしたが、昨日電話がかかって来ました。
 おかげを頂きましたというてから電話がかかって来たですもん、親先生やっぱ教えは守らにゃ出来ませんち言うてから電話がかかって来ました。というのは親先生がその嫌いな人ほど大切にせろといわれる、私は人の好き嫌いがあってどうにもでけなかったけれども私はこの教えに二、三日前から本気で取組み出した、ね。もう言うならば物も言おうごつないという、言うなら嫌いなタイプの人がある。もうその一番嫌いというタイプの人をまあ仲良うしたり大切にしたりするようになにせて頂きましたら、其の人がある所へ紹介をされて大きな商いが出来た、まあ、その方の家ではです。この年末も越す事が出来ますおかげで正月もよい正月が出来ます、という御礼のお届けであった。
 この神様はね、本当にあの、教えを少しばかり行じようと本気になったらもうすぐおかげ下さる神様ですよ、ごまかしがない、本当にね。こうなってくると信心も言うならば成程難しいものじゃないなあと自分という者を改まってみてこげなこっちゃ神の気感に叶わん、神様に喜んでもらえるような、本当にもう自分な金輪際悪口は言わんぞと決められた所から又元の商売に戻って繁昌のおかげを頂いとりますというのが昨日の高野さんの発表であり、もういよいよ言うなら人間まあ好き嫌いが多いというか、しかももう嫌いというたら嫌いもうものでん言おうごつないと言うような性質でしたけれども、ここは大切にしなきゃいけんと思うてもういよいよ嫌いな人を大切にするようになったら其の人が言うなら大きな商いの紹介をしてくれた、おかげを頂いてこの年末も越せます、いや正月もおかげで楽にやっていけそうですという御礼の電話でした。皆さんどう思われますか。
 もう只、漠然と聞いとるだけじゃでけんですよ、もう一言でん本当の事をね。言うなら教えを本気で自分のものにしょう、行じよう、血に肉にしていくというそれが一つ一つでけてくるという事は、まあ言うならばね、言うならば下から上へ水を流すように難しいでしょうね。それがいわば本当の発展繁昌、又は教会でいうならば教会が立ち行く様なおかげになって、初めの間はなかなか難儀な事であったけれども段々信者も増えてお徳を受けて人が助かるようになりという難しいです。
 けどもその日その日のおかげを受けていくという事は難しいことじゃないて。心を神様に向けて、その向けた心が一言でももう金輪際私は人の悪口は言わんと、ね。皆さんが例えば成行を尊ぶとか大切にするとか土の心でというとる漠然というのだけじゃ駄目です。徹しなければ。もう本気、この事の成行は大事にするけれどもこの事はもう御免蒙ります。ここは黙って受けるけども、ここは一口言うとかにゃといったような事が続いたんでは、私はその腹が決まらなかったらおかげにならんと思う。それだけでおかげがずーと続くという事じゃない、ね。けども打てば響くように神様がおかげを見して下さるから、次の御教えを又自分のものにしていく楽しみとか喜びといったようなものが出来てくるような信心をしたいね。
 成程下から上へ水を流すように難しい事なんだけれどもね、そういう日々の、いわゆる信心は容易いものじゃがと仰せられるような信心を日々続けていく辛抱の中に信心辛抱の徳が受けていく、ね。そん時そん時、その日その日の立ち行きのおかげをお願いをしていくという事、只どうぞ今日もよろしくお願いします。今日もどうぞ商売が繁昌しますようにと言うてお願いをして帰っただけじゃいかんて、それでもおかげを受けますけれども、それではねいわば信心は難しいものになるんです。信心は容易い、教えを行じる事が容易いという事にならなければ、ね。
 果たして皆さん教えがどれだけ皆さんのものになっているだろうか、どれだけ徹底した自分の血に肉になっておるだろうか。これは昨日、今の高野さんと宮崎の高鍋の高橋さんのこれはまあ、いうなら信心は本気でその気になったら容易いもんだな、だから教えを守るという事が容易いという事んなってくる時に、信心はいやおかげもいうなら容易う頂けてくるようになり、それでなら繁昌のおかげになったとか立派なこれが成就したというのじゃなくて、その日その日のおかげを頂いていく為にもね、いわば信心は容易いものにしてという事は教を少しづつでも自分のものにしていくという事はその気になれば容易いんだと、そしてそれが五年経ち十年経ちしていきよるうちには、それこそ我ながら我が心が拝めれるようにもなりね、辛抱していく間には徳が受けられると最後に仰ってられますように徳が受けられて、いうならばひとりでに物が出けるようないうならば、上から下へ水を流すようにスムーズなおかげにもなってくるという事なんです、ね。その辺の所をね、御教えに矛盾はないです。ね、お徳を受けるといったような事は簡単に出来ません。身に徳を受ける修行など、けども日々おかげを受けていくという信心は容易い、しかもその信心がね、一言一言自分のものに血に肉になっていくという事、ね、それがなら辛抱して行く間にはね、徳が受けられるというような信心。
 私は昨日、その高野さんの話を聞いてたった一言の発表でしたけども感心しました。はぁーこの人達夫婦は、ここん所がおかげを頂くコツのようなものを持っておられるなぁという事、ね。高橋さんな昨日のお取次させて頂きましてもですね、もうほんなこてもうあの人とは物も言おうごつないというような人を大切にしたと言われるんです。いうなら親先生がいわゆるいよいよ嫌いなものを大切にせよと言われるから本気で…したらそん嫌いな人がいうならいつも申しますよね、いやだな、汚いなぁと思うような下に宝クジが隠してあるというふうに申しましょう。確かにその下に宝クジがあったわけです。それこそ今年年末おかげで無事に越せますというだけでなくて、おかげで正月もよい正月が出けるといっております、ね。 そういうおかげを頂く為にも本気でやはり教えに取組む、取組む事がね、それを自分のものにしていこうとする事は実を言うたら、そんなに難しい…その気になったら容易い、ね。
 本当なお徳が、いうなら上から下に流れるように道は頂けないにしましてもね、段々おかげを頂いていくうちには身に徳を受ける修行ともなっていく事はまあ難しいかも知れんけれどもね、日々の信心が楽しゅうておかげが受けていけれるという事は、教えを行ずる事に容易い、楽しさそういうものの分かるような日々でありたいと思うですね。どうぞ。